「レイマー氏を蔑(さげす)む林道義氏」への批判に答える

第3章 Re:方法論的思考と読解力の欠如 (「林道義東京女子大学教授」への反論 )


林道義著『家族を蔑(さげす)む人々 フェミニズムへの理論的批判』が多くの注目を集めたり、各方面で取り上げられている…というのは見たことも聞いたこともないが、それはともかく拙著「レイマー氏を蔑(さげす)む林道義氏」への批判が林氏のサイトに先日掲載された。それだけムキになるということは、あの素人が書いた、たったひとつの記事が、林氏にとって大きな打撃となっていることをうかがわせる。


牧波さんがこれまでの記事で指摘した「デイヴィッド・レイマー氏を辱めようとするバックラッシュ」に共通の欠陥は次の三点である。

  1. 方法論的思考ができない。というか扇動さえできれば内容はどうでもよく、レイマー氏自体にも興味はない。
  2. テキストを正確に読むという基本が欠けている。すなわち、相手の言っていることを正しく読んだ上で批判するということができていない。おそらく、する気もない。
  3. 論争において、扇動にばかり走るので、内容がおろそかになる。そもそも、『As Nature Made Him』を使った男女共同政策批判は論理として成立しない。


牧波さんがせっかく指摘して差し上げたのに、反省もしないし参考にもしないで、依然としてこの三つの欠陥を合わせ持ったままの論が現れた。林氏の「『家族を蔑む人々』への批判に答える(1) 方法論的思考と読解力の欠如 (「牧波」への反論 )」という文章である。


http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/femi36-1.html


この者の論は、これまで牧波さんが指摘した「デイヴィッド・レイマー氏を辱めようとするバックラッシュ」の三大欠陥を典型的に示していて、格好の教材になるので、ここで取り上げてみようと思う。



闇討ちのような「匿名」批判

その前に、「匿名批判」について述べておきたい。「牧波昆布郎」という名前は、もちろん本名ではない。こんな名前の者がいたら、児童虐待で親を通報すべきである。プロフィールなど、本人を特定できる情報は公開していない。つまりハンドルネームを使用して、インターネットで主張を公開しているのである。


「仮名での批判は卑怯な精神を肯定し育てるという意味でも、禁止にすべきである」などと威張りつつも、自分の気に入った掲示板の書き込みについては、匿名であっても嬉々として参照にする。そんな林氏に権威や信用があると考えるのは大変難しいことだが、しかし逆に「匿名批判」者がどんなに匿名はずるいなどとほざこうが、web空間が変わるわけもなく、単なる言い訳にしかなるまい。というか、匿名でもなんでもないのに、大きな間違いを何十回暴露されようが、背後にいる林道義は痛くもかゆくもなく、なにくわぬ顔で通常どおりの生活を隠居生活またはデマゴーグとしての活動を続けている。わけわからん、である。匿名であろうと実名であろうと、web上においては、内容においての有利/不利はない。そういうことは学問的な反論を書いてから主張するべきである。


しかし、こういう「匿名批判」者と論争をして分かったことは、「実名」が必ずしも不利とは言えないということである。匿名批判者は論争でどんなに負けても、本人は「相手が匿名で卑怯だったからだ」などと言い逃れができるので、どうしても緊張感に欠ける。相手が匿名なので、相手を軽んじて、内容がおろそかになるようである。


この林氏という者も、上で牧波さんが指摘した三大欠陥のすべてを露呈している。「匿名」相手の油断であろうか、それとも、もともと能力がないせいか。間違いなく後者だろうが、さっそく吟味してみよう。

方法論的思考の欠如

まず、方法論的思考の欠如を示す典型的な例を出してみよう。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):

〔……〕
じつは私をバカにできるのは、この図を視覚的にのみ見ている者だけである。しかし、この図は視覚的な切れ目を示しているのではない。ある「意味」を示すための模式図である。それをこの者は視覚的な図として読み(読ませ)、「どう見ても切れ目は見えない」と言い、「何を言っているのか理解できない」と笑いものにしているのである。

私が言っている「切れ目」とは、視覚的な「切れ目」ではない。意味的・質的な「切れ目」である。すなわち、上野・大沢氏らが「中間があるから連続している」と言っているのに対して、その「中間」とは両側の男女とは質的に異なる「例外的な少数者」であり、したがってその存在があるからと言って「続いている」とは言えない、と主張しているのである。この図の細くなっている真ん中は「例外的な少数者」を示している。「中間にあるものが質的に例外的なものならば、そこは連続しているとは言えない、切れている」と私は言っている。つまり「例外的な少数者」が「切れ目」を意味しているのである。そういう意味だということを私はよくよく説明しているので、この者が本当に私の著書をきちんと読んでいるなら、すでに理解しているはずである。

じつは私をバカにできるのは、切れ目のない図を描いておきながら「この図は視覚的な切れ目を示しているのではない」などと、理解不能な世迷ひ言をのたまう者だけである。あえて図に表わすのであれば、せめて以下のようにするべきであっただろう。

これで、林氏が「方法論的に考え」た図を「視覚的」に見ることができる。
「図」というものは「物の形や状態を描いたもの*1」という意味である。図というものは「視覚的」に見るものであり、視覚的に解釈してはいけないような図は図として不適格なのだ。しかし、そのことを理解できない林氏は、視覚的に見る者を「たいへん幼稚な頭脳しか持っていない」と、からかっているのである。「一般向けの啓蒙書」と豪語するからには、もっと「一般的」な図を書きたまえ。


念のために補足しておくと、この林氏が自信たっぷりに描いたこの図は、林氏の脳内では「男女の分布」をあらわすそうである。はて、いったい男女の何の分布なのだろうか。自分の都合のよい図を勝手に描いて「ふふ、こんなに反論できちゃったボクちゃん」とでも言いたいらしい。これが自称「フェミニストへの理論的反論」の根拠らしいのだが、これで本当に元教授なのだろうか。


次にこの者がテキストを客観的に正確に読む能力を著しく欠いていることを多くの具体例をもって示しておこう。


断片的な引用で、逆のことを言っているように見せかけている例

以下は、林氏が、新井氏の言っていることを自分に都合のいい方向に作為的に解釈している例である。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
「牧波」は新井氏の「社会的・文化的要因のほうが重視される」という片言隻句を引用して、「文化的性差が、生得的な性差に基づいている」という私の命題に対するアンチテーゼであるかのように見せかけようとしている。
〔……〕
 この新井氏の文章は、じつはかなり曖昧である。すなわち、この文章が新井氏自身の意見を表現しているのかどうか、分からない。「重視される」という言い回しは、普通自分が「重視している」というよりは、世間一般で「重視されている」という意味で使われる。もしそうだとすると、新井氏の意見ではなく、「フェミニストなどが重視している」という意味で使われている可能性もある。
〔……〕
新井氏の意見でないことは、「のほうが」という表現からも推測できる。「生得的要因に比べて」という意味であろうが、どちらの影響が多いか少ないかを断定することは、科学的にはほとんど不可能である。科学者である新井氏が、そんな曖昧な言い方をするとは思えない。「ジェンダーの」という言葉を使っているところからも、これは氏の判断ではなく、「フェミニストなどがそう言っている」という意味ではないか。

都合よく解釈し、自分に都合の悪いところだけは、なんとかうやむやにしようとしている例である。腰砕けになりつつ、実際に新井康允氏の『脳の性差―男と女の心を探る (ブレインサイエンス・シリーズ)』から引用してみることにしよう。

新井(『脳の性差〜』 p.iii-iv):
生殖機能を調節する脳の働きには、はっきりとしたちがいが認められる。動物の性行動を考えてみても、雄と雌が同じような行動をやっていたのでは生殖活動はうまくいかない。そこには自ら雄と雌で役割分担があり、行動的にちがいがあるのは当然のことである。このような行動的な性差を生ずる背景には、雌雄で脳がハードウェア的に異なるところがあるからである。
しかし、人間の性役割の成立には、生物学的なものばかりでなく、社会的・文化的要因が加わっており、いわゆるジェンダーの役割を考える場合には、社会的・文化的要因のほうが重視される。したがって、男らしさ、女らしさを考えるときに、動物の場合のようにそう単純にはいかない。
この十年間、ヒトの脳の性差に関する研究がかなり盛んになってきて、ヒトの脳にも構造的な性差があるという研究結果が発表されるに至った。脳は心のハードウェアであり、このちがいが男らしさ、女らしさ、男の心、女の心に何らかのかたちで投影されているにちがいない。
本書では、男と女のちがいの本質はどこにあるのかを出生前からの男と女のでき上がっていく過程を通して解き明かしてみようと思う。生物学的な性差が社会的な性差と交叉して、どのように修飾されて、男と女が育っていくか、そこに脳の性差がどのように係わっているのかが問題なのである。

どうみても新井氏自身の主張です。ありがとうございました。


しかし、どうせ林氏は納得しないであろうから、本文からも引用してみよう。

新井(『脳の性差』p.1):
生まれてきた赤ん坊が男の子か、女の子なのかの判別は、純粋に生物学的な基準によるわけであるが、これにより社会的な性、あるいは法的な性が決定されることになる。したがって、その判別の結果によって、早くから両親の対応の仕方にちがいが見られるようになる。それは人間社会で、性別によって生活習慣が異なっていて、男あるいは女にふさわしい行動様式を社会的に求められるからでいる。*2
衣服の色やデザインを選ぶ際には、男の子あるいは女の子にふさわしいものを、おもちゃを与えるときも同様にふさわしいものを選ぶ。そして、親は子どもに、男らしさ、女らしさを期待し、また要求もする。
こうした中で、育つ子どもの方も自分に対して周囲がどう扱うか、自分の肉体的特徴を他の子と比較して、自分の体の特徴が同じか、ちがうかを学習しながら、だんだんと自分の性別に関する自覚を持つようになっていく。こうして、子どもはさらに男の子としてあるいは女の子としての自覚が生まれるようになる。これが幼小児期における性の自己認識というべきものである。したがって、男らしさ、女らしさには生まれてから社会的、文化的な影響を吸収してできあがった部分が非常に多いことになる。しかし、それだけだろうか。生物学的な背景が何かないのかと言う疑問が残る。

この記述からも、牧波さんが提示した新井氏の記述が「新井氏の意見」であることがわかる。また林氏が主張するように、「『フェミニストなどが重視している』という意味で使われている可能性」など全くないことが確認できる。寝言は寝ているときに言うものである。


そして極めつけが、以下の記述である。

新井(『脳の性差』p.187-188):
「人間の性を決めるのはなにかという疑問はやはり、「それは脳である」、ということが答えとして正しいのではないかと思われる。
本書では、脳の性差だけを取り上げて述べてきたが、性差を考える際には、両性における類似性を常に考えなければならない。性差と類似性を同時に考えることによって、性差に関する理解がより深まるからである。本書ではそこが不足したきらいがある。
脳の性差が生ずる誘因として、本書では周生期における性ホルモンの働きを重視して述べてきた。しかし、ヒトの行動の性差、特に性的嗜好などに関して、ホルモンの働きのみで、その行動の異常が決まるというほど単純なものではないだろう。生物学的側面があることは事実であって、おそらく、それに加えて何かきっかけになる社会的なインプットが握っているかもしれない。この点に十分考慮する必要があるだろう。

以上の記述からは(林氏の主張とは異なり)、新井氏は「『文化的性差は生得的な性差に基づいている』という私の命題と基本的に一致した見方を示して」などいないことが確認できる。「側面」というのは「種々な性質・特質のうちの一つ。一面*3」という意味である。つまり、「文化的性差〔……〕が、〔……〕生得的な性差に基づいていることが明らかとなった」訳ではないのである。


新井氏を利用するのもよいが、もう少しマシな引用をするべきである。なお、新井氏が常に正しいわけでもないことは、言うまでもない。


さて林氏の文章には、テキストを正確に読む能力がないと、どんな間違いを犯すかという見本が、他にもいくつも見られる。というより、牧波さんに対して理論的に間違いだと言っているすべての論点で、じつは林氏の方が間違っているのである。その間違いはほとんどすべて、元々の文献をデタラメに引用した結果なのである。この者はテキストを正確に引用するという基本事項を守ったことがないのであろうか。

無効になっていないのに無効にされた例
第一の例

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
マネー氏の「心理的・社会的な性別」の仮説を「双児の症例」だけで完全に破綻させることは不可能です。

私は「双児の症例」だけでマネーの仮説全体が「完全に破綻」したなどとは一言も言っていない。私は「性の自己認知は生まれつき決まっているのか、それとも育て方によって左右されるのか」という論争に決着がつき、(この点についての)マネー理論は「完全に破綻」したと書いている。

どれどれ、もう一度『家族を蔑む人々』を読んでみよう。

林(『家族を蔑む〜』p.59):
ダイアモンド教授の批判を機に、「性の自己認知は生まれつき決まっているのか、それとも育て方によって左右されるのか」という論争が全米で巻き起こった。この論争は生得説のダイアモンド教授側の勝利によって決着がつき、マネー理論は完全に破綻した。
〔……〕
ブレンダの症例によってマネーの権威は地に堕ち、フェミニズムの間違いは白日のもとに曝された。

うむ、どうみても「『双児の症例』だけでマネーの仮説全体が『完全に破綻』した」と言っている。


理論的に大切なところなので、ここはいつもの牧波さん口調に戻ってもう少し説明することにしよう。なぜなら、ドギ屈文体では何を書いても胡散臭く聞こえるからである。


http://d.hatena.ne.jp/makinamikonbu/20051114/にて提示したように、マネー氏は「性転換希望者などの患者」に対して「ホルモンや遺伝子の性別に併せて生きるよう」に説得・治療をしても効果がなかったことから、「心理的・社会的な性別」というものが、かなり早い段階で決定するのではないかという仮説を立てました。そしてマネー氏は、人間はある時期以降は言語の習得が難しくなることから、ジェンダーアイデンティティ・ロール)も18〜24ヶ月で形成されるのではないかという仮説を立てています。


改めて言いますが、「性の自己認知は生まれつき決まっているのか、それとも育て方によって左右されるのか」という点についてはまだ論争に決着がついていません。反証として、ブラッドレイ他の論文(ここから読めます)*4では、レイマー氏と同じ経緯*5で手術を受けた人で、その後の追跡調査でも女性として生活している(性自認が女性である)と確認されている事例が提示されています。


マネーの仮説が100%常に通用するものではないということは双子の症例で確認されました。しかし、「例外のない法則はない」のですから、デイヴィッド・ライマー氏の件が例外であった可能性は否定できません。ゆえに、たった1つの症例をもってマネーの理論が無効になるわけがないのです。
さて、ドギ屈文体に戻ろう。

第二の例

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
現在ダイアモンド氏は「性の自己認知は生まれつき決まっている」と主張していません。

ダイアモンド氏が「性の自己認知は生まれつき決まっている」と主張していない根拠としてあげられているのは、氏が東京新聞の取材に対して「人間の性別は生物学的な資質と社会、文化的な力が働きあった混合体。個人において、その混合がどう現れてくるかは、だれも予想できない」と答えたということだけである。これは「自己認知は」ではなく、「人間の性別は」となっている。「自己認知は」と「性別は」では意味が違ってくる。後者なら、それはごく常識的なことを言ったもので、私に対するなんの反論にもなっていない。私も以前から「性別は生物学的な資質と社会、文化的な力による混合体」だと主張している。ただし、両者が反対を向かされると弊害が生じるから、後者は前者に合致させた方がいいと言っているのである。(この点については、次回の「macskaへの反論1」で詳しく論ずる。)

林氏の主張の通りなのだろうか。同じ東京新聞*6から、別の箇所を引用してみよう。

東京新聞(2005/07/25朝刊「こちら特報部」):
「ブレンダと呼ばれた少年」で「マネーの嘘(うそ)を暴いた」(八木氏)と保守派に評価されているのがハワイ大医学校解剖学・生殖学教授のミルトン・ダイアモンド氏だ。だが、同氏は自著の「人間の性とは何か」では、性別が生物学的因子(脳)だけに由来するという説、「生まれたときは中性」というマネー理論の双方を否定している。

ここで言う「性別」が「性自認」のことであるのは明らかである。なぜなら、マネー氏が「生まれたときは中性」と言ったとき、それは性自認のことを指していたからであり、ダイアモンド氏はマネー氏の性自認についての説を批判していたからだ。ゆえに文脈上、ここの「性別」という言葉が「性自認」のことでなければおかしいのですよ(あれ、牧波さん文体に戻っちゃった。ドギ屈文体はネチっこいから、趣味に合わなくてつい)。
なお、以下の傲慢で独り善がりな主張に対しても批判を加えておこう。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
ダイアモンド氏に関しては、両陣営が自分の味方にしようと綱引きをしている状態であり、いろいろな人が「自分にはこう言った」と勝手に主張している。氏の片言隻句(へんげんせつく)を取り出して、恣意的に利用すべきではない。

自分に都合が悪くなったからと言って、「恣意的に利用するべきでない」などとのたまうべきではない。もとはと言えば、林氏が『家族を蔑む人々』でしっかりと「利用」しているではないか。そういうことは、せめて(以下略)。慣習で。


なお、そのような批判は、八木秀次氏らがさかんに引用している世界日報社山本彰記者に向けるべきである。昨年の世界日報のインタビュー記事について、ダイアモンド氏が山本記者に送ったメールがhttp://macska.org/diamond-emails-pt-1にて公開されている。そこでは、第三者が「『自分にはこう言った』と勝手に主張している」のではなく、ダイアモンド氏自身が

ダイアモンド(「http://macska.org/diamond-emails-pt-1」):
I am afraid that what I say might not be accurately translated and was disappointed to understand that I was quoted as saying some unflattering things about Dr. Chizuko Ueno. I don’t think my comments were placed in the context I thought appropriate.*7

と、山本氏が「片言隻句(へんげんせつく)を取り出して、恣意的に利用」したことを批判しているのである。なお「両陣営が自分の味方にしようと綱引きをしている」わけではないことを注意しておく。トンデモなバッシングに利用されたことに気づいたダイアモンド氏が、東京新聞朝日新聞、そして取材した世界日報山本彰記者に対して、氏自らがコメントしているのである。林だけに、その目は節穴か。

第三の例

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
レイマー氏の自殺の原因を「実験によるもののみ」と決めつけることはできません。

私は「実験によるもののみ」と決めつけてはいない。それが最初の決定的で根底的な原因だと言っているのである。

それを決めつけと言うのである。それで悪ければ勝手な思い込み、空想とでも言い換えるべきであろうか。「記事が並べていること(失職、離婚、弟の自殺)も、すべてその手術の失敗から出てきたと言える」などと、なぜ断言できるのだろうか。また「不当な実験が最初の根底的で主要な原因であることは明白ではないのか」と豪語しているが、どのような面で断言しているのだろうか。


なお、林氏は御自分で書いた本の内容も忘れてしまったのかもしれない。都合の悪いことはすぐに忘れてしまう林氏のために、こちらから確認して差し上げようではないか。

林(『家族を蔑む〜』p.59):
不幸にも、デイヴィッド・レイマ−は二〇〇四年五月、突然自殺してしまったのである。恐らく幼少期に受けた非道な性転換と、女の子として育てられた無理による傷を最後まで克服できなかったためと考えられる。

うむ。やはり決め付けている。林氏は、自分の発言すらも後に作為的に解釈する読解力の持ち主であるらしい。

いいかげんな誤読で牧波さんを「いい加減」と言っている例

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
マネーは一九七二年、論文「双児の症例」を書いて、その実験が成功したと発表した。この症例は「ジェンダーは育て方によって決まる」「男の子でも女の子として育てれば女の子になる」というフェミニズムの教義を実証するものとして、「ジェンダー」理論を補強する役割を果たした。

あれ?はじめの段階で林氏は「ジェンダー」を「文化的性差」と定義していましたよね。でもここでは「ジェンダー」を「性の自己認知」(ジェンダーアイデンティティ)と定義していますね。いいかげんだなぁ。
ただこの引用箇所からは、林氏が「フェミニズムの教義」を「性の自己認知は育て方によって決まる」と定義していることが理解できます。これはid:makinamikonbu:20051202にて提示したように、現代の「ジェンダーフリー」の概念とは異なっています。ジェンダーフリーは「『女/男とはこういうものだ』という通念を元にした男女の区別」を問題にしており、「性の自己認知は育て方によって決まる」という主張ではありません。もちろん「男の子を女の子として育てて女の子にする」という主張でもありません。

 いい加減なのはどっちだと言いたいような、混乱ぶりである。そもそも私はどこにおいても、
ジェンダー」を「性の自己認知」(ジェンダーアイデンティティ)と定義して
はいない。もちろん見れば分かるように、この「引用箇所」でも、そんな定義はしていない。また私は
フェミニズムの教義」を「性の自己認知は育て方によって決まる」と定義して
はいない。私は
ジェンダーは育て方によって決まる」というフェミニズムの教義
と述べている。私が「ジェンダーは」と言っているのに、どうして「性の自己認知は」に変えてしまうのか。

読者から見れば、林氏がわけのわからないことを喚き散らしているように見えるであろう。だが林氏だけを責めるのは間違いである。これは明らかに、牧波さんの説明がややこしかったのが原因である。わかりやすいように、以下のように訂正しよう。

林氏が「フェミニズムの教義」を「性の自己認知は育て方によって決まる」と誤解していることが理解できます。


林氏はマネーの「ジェンダーは育て方によって決まる」という主張を引用しているが、マネーが「ジェンダー」という言葉で指したものは、今の言葉で言えば「性自認」つまり「性の自己認知」のことである。一方、フェミニストが「ジェンダーは育て方によって決まる」と言うとき、それは「男らしさ・女らしさ」のような特性や特質について言っているのであり、マネーの意味とは異なる。マネーの「ジェンダー」がどういう意味であったかについては、上野氏の「差異の政治学」にて説明されている。これはちょうど、林氏が『家族を蔑む人々』にて引用しなかった部分にあたる。

上野(『差異の政治学』p.5):
マネーとタッカーは、性診療の外来で、性転換希望者の相談と指導にあたっていた。性転換希望者には男もしくは女として育てられて、第二次性徴期に性別の判定のまちがいに気づいたケースが多い。カウンセラーは当初、患者の生物学的な性別に心理的な性別を合わせようとする。その方が「自然」だからである。それだけではない。性転換には、苦痛の多い身体改造がともない、時間もお金もかかる。かれらは現実を変えるかわりに、「気持ちの持ちよう」を変えるよう、患者にすすめたのである。だがかれらが発見したのは、患者の「性自認ジェンダーアイデンティティ)」はその年齢までに強固に形成されており、それを変えるのは容易でないこと、もしその「指導」を強制すれば、患者はアイデンティティの危機から自殺にさえ追いこまれかねないことであった。多くの患者は、豊胸術、ペニス切除、造膣術のような苦痛の多い手術をほどこしてまで、自分の「性自認」に生物学的身体のほうを合わせることを選んだ。つまり、セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである。

ここからも、マネーの「ジェンダー」は、今日的には「性自認」を示す概念であることが理解できるであろう。マネーを引用しながら

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
私が「ジェンダーは」と言っているのに、どうして「性の自己認知は」に変えてしまうのか。

と主張している林氏は、マネーの「ジェンダー」用法が現在の「ジェンダー」用法とは違うことに気付いていない。そのために、マネーの「ジェンダー」とフェミニストの「ジェンダー」を同じものと見なすというミスをおかしているのである。いいかげんなのはどっちだと言いたいような、混乱ぶりである。

マネーの「ジェンダー」用語について

この論点と関連して、林氏が相変わらず用語の使い方を間違えている点にもふれておこう。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
ジョン・マネー氏の実験などに関して、「ジェンダー」という言葉を「文化的性差」とするのは間違いです。id:makinamikonbu:20051202にて提示したように、マネー氏の「ジェンダー」概念は「自分自身を男性または女性として認識すること」、「男性または女性としての自己認識を表現しているあらゆることがら」を指します。マネー氏の「ジェンダー」概念を指す場合は「文化的性差」では無く、「ジェンダーアイデンティティ性自認)」や「心理的性差」と呼ぶのが適切です。

マネーの理論からすれば、「性自認」も「心理的性差」も父母や家族を中心とした「社会」の影響で「作られる」。つまり今日のフェミニストの言う「文化的性差」と同様の考え方によっているのであるから、それを「文化的性差」と言い換えるのは間違いでも不適切でもない。私はマネーの用語の意味に従って言い換えているのである。もしマネーが「性自認」も「心理的性差」も生得的なものと捉えているのならば、そういう言い換えは「間違い」だと言える。

林氏はマネーの用語の意味をきちんと理解していない。マネーの用語は現在では「性自認」を意味しているのは先ほど述べた通りである。上野氏は「差異の政治学」にて「『性自認』」「心理的性差」と記述しているが、両者が指しているものは同じである。そして、マネーの理論によれば、「『性自認』(心理的性差)」は生後24ヶ月までには形成され,その後はカウンセリングなどによって変更できないとしている(上野氏の要約参照)。


もし「今日のフェミニストの言う『文化的性差』」が「『性自認』(心理的性差)」と同じ概念であると仮定すると、今日のフェミニストたちは「男らしさ・女らしさ」といった特性や特質は生後24ヶ月までで固定する、と主張していることになってしまう。果たしてそれは事実であろうか?もし事実であるならば、今日のフェミニストたちがジェンダーフリー教育などやるはずがないであろう。それどころか、「ジェンダーフリー教育なんて無駄だ」ということを、今日のフェミニストたちが逆に主張していることになるのである。
つまり、「『性自認』」や「心理的性差」を「文化的性差」と言い換えるのはどこからどう見ても「間違い」だと言えるのである。


この者は、「むしろ『牧波』の方が『ボロボロ』であることが明らか」などと豪語しているが、いま見たように、すべて牧波さんの主張を歪めているだけで、やはり「林」氏の方が「ボロボロ」であることが明らかになったと言うべきだろう。人を批判するなら、まず相手を正確に理解してからにするのが、基本中の基本である。この者はその基本がまるでできていないのだから、東京女子大学から(以下略)。やつあたりは慎むべきだ。

「すりかえ」であるのに「摺り替え」でないと非難している例

もう一つ、煩雑になるが、頭が悪いとしか言えない例を挙げておこう。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
もし「中間があるから連続がある」と言うのなら、「男らしさ」「女らしさ」にも中間があるから、ジェンダーについても「男でなければ女、女でなければ男、と排他的なニ項対立」だとは言えなくなる。というのも、世の中には「男まさりの女」「女より女々しい男」もいるし、そのようなジェンダー自認を持った人が現にいるし、世間も「中間」がいることを認識している。したがって「男らしさ」「女らしさ」も両極端として固定されたものではなく、無数の組み合わせによるグラデーションがあるからである。だから上野氏の論法でいけば、ジェンダーもまた連続体だと言わなければならない。しかし上野氏は同じ論法を一方にだけ適用し、他には適用しない。こういういい加減な論理が通用するのがフェミニズムの世界である。

林氏が引用した上野氏の記述は「生物学的な分類は文化的な性差によって規定される」という内容であるのに、林氏はこの段落では「ジェンダー自認」の話に摺り替えています。こういういい加減な論理が通用するのがバックラッシュの世界なんですね。こういうのを私は「ドギ屈」と名づけましょう。たとえうっかりしていても誰も騙されないでしょうけど。

林氏はこの段落で「『男まさりの女』『女より女々しい男』もいるから、ジェンダーもまた連続体だと言わなければならない」と言っています。でも、林氏は著書の中で「男らしくない男」や「女らしくない女」を徹底的に叩いていますよね。同じ著書の中ですら論理が矛盾しあっている。まさに「ドギ屈」ですね。

私が言っていることは、「A」について言われている論理を「B」について当てはめてみるとどうなるかということである。一つのことにだけ使われている上野氏の論理を、別のことにも同様に適用すると、上野氏の矛盾が明らかになると言っているのである。こういう論の進め方は「すりかえ」ではない。論点をすりかえたのではなく、相手の論理を一般化してみせたのである。この例も、「人の言っていることを正確に理解できない」この者の欠陥を示している例である。

はて、上野氏は「『性自認心理的性差)』は連続体ではない」とは一度も記述してはいないのだが。やはり、相手の言っていることを正しく読むという気すらないようである。

上野(『差異の政治学』p.8-9):
遺伝子、内分泌、外性器のどれをとっても、自然界には性差の連続性があるのに対し、文化的な性差は中間項の存在をゆるさず、男でなければ女、女でなければ男、と排他的な二項対立のいずれかに、人間を分類するのである。

上記の通り、上野氏が「排他的な二項対立」だと指摘しているのは「文化的な性差」である。「『性自認』(心理的性差)」のことではない。この例も、「人の言っていることを正確に理解できない」林氏の欠陥を示している例である。付け加えておくが、「『性自認』(心理的性差)」を「今日のフェミニストの言う『文化的性差』」と言い換えるのは、どこからどう見ても「間違い」だということを先ほど証明した。よって「遺伝子、内分泌、外性器などの性差」について言われている論理を「今日のフェミニストの言う『文化的性差』」について当てはめた上に、今日のフェミニストの言う「ジェンダー(文化的性差)」についても「『男でなければ女、女でなければ男、と排他的なニ項対立』だとは言えなくなる」と主張することはできない。このことを忠告しておく。


それと、本当にくだらないのでさらりと触れるにとどめるが、以下の点。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
議論の仕方もめちゃくちゃである。私が「男らしくない男」や「女らしくない女」を「徹底的に叩いている」と書いているが、「徹底的に叩く」とは何を意味しているのか、私の記述のどこを指しているのか、著者である私にもまったく分からない。百歩譲って、私が「男らしくない男」や「女らしくない女」を「徹底的に叩いている」として、それがなぜ矛盾なのか私にはまったく分からない。分かるように説明してほしいものである。

議論の仕方もめちゃくちゃである。「私の記述のどこを指しているのか、著者である私にもまったく分からない」と書いているが、自分で分からない本など書くべきではない。著者が自分ですら分からない本を、他人が分かるわけがないではないか。例えば以下はどうか。

林(『家族を蔑む〜』p76〜):
最近の男子は腑抜けになり、無気力になって、まるで軟体動物のようである。ダブダブのズボンをわざとずり落として、シャツの裾を外に出し、これ以上だらしなくはできないというほどに汚らしい風体をして、ダラダラと歩いている。女性も下品で乱暴になってしまった。いまどきの女性たちは、「ネ」とか「ヨ」という「女らしい」語尾は、「男の美意識に縛られた従属した女性のしるしだから、恥ずかしくて使えない」と感ずるようである。女性の子駑馬もますます汚くなっている。とくに若い女の子に著しい。「…でサア」「…だ」「やつ」という下品な言葉を好んで使う。「めし食おう」と、わざと男言葉を使う。若い女の子の流行を、いい年をした年配の女性も追いかけて得意顔である。
言葉だけではなく、服装も振舞いも「がさつ」になった。女子高生は判で押したように「超」短いスカートをはいて、フトモモを露出している。その服装で地べたにあぐらをかき、タバコを吸う。

これはほんの一例である。これが「家族を蔑む人々 〜フェミニズムへの理論的批判」というタイトルがつけられている本の中身である。むしろ「昔を懐かしむ人 〜脳内フェミニズムへの感情的八つ当たり」と名づけるべきだろう。


なお、「ネ」とか「ヨ」が「『女らしい』語尾」の基準になっているのは、林氏の脳内か、さもなくば漫画やドラマの世界だけであろう。そもそも「ネ」とか「ヨ」という語尾は、明治時代は「女らしくない」女学生言葉として時の大人から揶揄されたと聞く。歴史は繰り返す。「いまどきの女性たちは…」などという言葉を、恥ずかし気もなく使う者を、生で拝むとは思わなかった。これは貴重な経験と言えよう。


なお、林氏は、「百歩譲って、私が『男らしくない男』や『女らしくない女』を『徹底的に叩いている』として」とあらかじめ保険をかけておくという「腑抜けた」ことをなさっている。かわいいところもあるものだ。もし攻めキャラがいたならば、夏コミ用のネタにできたはず。大変残念である。


上野千鶴子氏と「双児の症例」とは関係あるのか

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
次に批判の「第二章」では、上野千鶴子氏と「双児の症例」との関係が問題にされている。要するに、両者には関係がないのに、私が無理に結びつけたという批判である。

「牧波」は、上野千鶴子氏は「差異の政治学では」「双児の症例」には「一切言及していません」と弁護に大わらわである(この者はなぜかジョン・マネー上野千鶴子氏をむきになって弁護する)。そして、こう言っている。

ただ問題は、林氏が引用した上野氏の記述が「双児の症例」によって証明されたものではない上に、ジョン・マネ−氏が発見したものでもない、という点でしょうか。

まず、後半の「ジョン・マネ−氏が発見したものでもない」という事実関係について言うと、上野氏が主張している「セックスの連続」の理論はスペクトル理論として『性の署名』の中に出てくる。マネーが初めて言い出した(第一発見者?)かどうかは別として、最もマネ−らしい、マネーの中心的な論点であることは確かである。その理論をマネーが最初に言い出したかどうかは、どうでもよいことである。

大変バカバカしいことだが、林氏のためにしっかり説明しよう。まず、マネーらしいとか云々の以前に、上野氏が言う「セックスの連続性」は自然界を観測すれば書くにできることなのである。おさらいしてみよう。

上野(『差異の政治学』p.8-9):
生物学的に性別を決定する要素には、遺伝子、内分泌、外性器などの異なった次元がある。だが自然界にある性別には、どのレベルでも連続性があり、男/女のような二項対立にはできていない。〔……〕すなわち、遺伝子、内分泌、外性器のどれをとっても、自然界には性差の連続性がある

この部分は、普通に自然界を観測すれば確認されることであり、マネーの理論に何ら依存していない上に、「双子の症例」がどうなろうと覆されることはない。
「自然界を観測すれば確認できる」理論を「マネーが最初に言い出したかどうかは、どうでもよいこと」だと言う主張は、すなわち「『差異の政治学』と「双児の症例」とを無理に結びつけることは不可能だ」と自分から認めているようなものである。(林氏はなぜかジョン・マネー氏と上野千鶴子氏、そしてワタクシ牧波昆布郎をむきになって批判する)

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
さて、肝心の上野氏と「双児の症例」とはどんな関係にあるかを明らかにしておこう。私は「上野氏の記述が「双児の症例」によって証明されたものだ」とは書いていないが、上野氏の記述が(成功したはずの)「双児の症例」によって証明される関係にあることは確かである。

上野氏は「マネーとタッカーの業績は」という言い方をしている。その「業績」の中に「双児の症例」は当然含まれているはずである。それどころか、「双児の症例」はマネー理論を(一般人にまで拡張して)実証するものとして、一つの重要な症例として扱われている。それを承知の上で、上野氏は「マネーとタッカーの業績は」「セックスとジェンダーが別物であること」を示した。

上野氏が「差異の政治学」で提示した「マネーとタッカーの業績」には、「双児の症例」は含まれていない。牧波さんは「レイマー氏を蔑(さげす)む林道義氏」の中で、このことを3回は説明しているが、林氏は全て見逃してしまったのだろうか。

牧波(「レイマー氏を蔑(さげす)む林道義氏」):
id:makinamikonbu:20051114にて提示しているように、マネー氏が発見した仮説は、性転換希望者や半陰陽の患者がホルモンや遺伝子の状態などに関係なく「自分が女性または男性に属していると確信して」いたことから、「遺伝子やホルモンによって決定される生物学的性別」の他にも「心理的・社会的な性別」があるのではないかというものでした。上野氏はこのことについて「マネーとタッカーの業績は〔……〕セックス(生物学的性差)とジェンダー(心理学的性差)とは別のものだとあきらかにしたこと」と記述しているのです。

『差異の政治学』から、該当箇所を抜き出してみよう。

上野(『差異の政治学』p.7-9):
出生時の性別の判定は、とりあげた医師や助産婦によって外性器の形状から判断されるが、これには間違いがしばしば発生する。発生の途中で、なんらかの事情で男児の外性器が矯小化、女児の外性器が肥大したりすることがある。まれには半陰陽といって男女の外性器をともにそなえて生まれてくる場合もある。性別判定の誤認が明らかになるのは、ふつう第二次性徴期を迎えた時である。女の子だと思っていたのに声変わりがしたり、ヒゲがはえてきたり、いつまでたっても所長がなかったりすることで、生物学的性別の誤認が発見されることがある。
〔……〕
マネーとタッカーは、性診療の外来で、性転換希望者の相談と指導にあたっていた。性転換希望者には男もしくは女として育てられて、第二次性徴期に性別の判定のまちがいに気づいたケースが多い。カウンセラーは当初、患者の生物学的な性別に心理的な性別をあわせようとした。そのほうが「自然」だからである。それだけではない。性転換には、苦痛の多い身体改造ががともない、時間もお金もかかる。かれらは現実を変えるかわりに、「気持ちの持ちよう」を変えるよう、患者にすすめたのである。だがかれらが発見したのは、患者の「性自認(ジェンダーアイデンティティ)」はその年齢までに強固に形成されており、それを変えるのは容易ではないこと、もしその「指導」を強制すれば、患者はアイデンティティの危機から自殺にさえ追いこまれかねないことであった。多くの患者は、豊胸術、ペニス切除、造膣術のような苦痛の多い苦痛をほどこしてまで、自分の「性自認」に生物学的身体のほうを合わせることを選んだ。つまり、セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである。
〔……〕
マネーとタッカーの業績は、セックスとジェンダーのずれを指摘したにとどまらない。もっと重要なことに、彼らの仕事は、セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した。万一外性器に異常があっても、もし遺伝子やホルモンが性差を決定するならば、患者たちは周囲の性別誤認にもかかわらず、自然に「男性的」もしくは「女性的」な心理的特長を発達させていたはずである。マネーとタッカーは、生物学的性差の基盤のうえに、心理的性差、社会的性差、文化的性差が積み上げられるという考え方を否定し、人間にとって性別とはセックスではなくジェンダーであることを、明瞭に示した。人間においては、遺伝子やホルモンが考える、のではない。言語が考える、のである。

マネーとタッカーの業績は、つぎの二点にまとめることができる。第一に、生物学的還元説に対して、セックス(生物学的性差)とジェンダー(心理学的性差)とは別のものだと明らかにしたこと、第二に、だからといってジェンダーが自由に変えられるようなものではなく、その拘束力が大きいことを証明したことである。


上野氏が「差異の政治学」で提示した「マネーとタッカーの業績」には、「双児の症例」の成功の是非は全く影響しない。なぜなら「双児の症例」が成功していようが失敗していようが、「性転換希望者や半陰陽の患者がホルモンや遺伝子の状態などに関係なく『自分が女性または男性に属していると確信して』」いなかったことにはならないからである。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
さらに上野氏は「性転換手術」(もちろんその中には「双児の症例」も含まれる)が示したことは「身体的性別とはまったく独立に性自認が成立すること、そしてそれが臨界期の後も変わりうることであった」と書いている。この文章は、単に半陰陽の人にだけ当てはまることとしてではなく、正常人を含む一般化された命題として言われている。一般化された命題となるためには、正常人を対象にした「双児の症例」の方が「証明」としては一層役に立つ。こういう流れの中では、上野氏の理論が「(成功したはずの)双児の症例によって証明される」という関係にあることは明らかである。上野氏の記述の中に「双児の症例」という言葉が出てこないからと言って、上野理論が「双児の症例」となんの関係もないと弁護することはできないのである。

まず、「双児の症例」が含まれるか含まれないかの問題以前に、「性転換手術」が上野氏の記述部分を示したわけではないことから検証する。林氏が引用した箇所を『差異の政治学』からきちんと引用してみよう。太字部分は例によって、八木会長……ではなく林氏が略した部分である。

上野(『差異の政治学』p.11-12):
九〇年代に入って、性干渉転換症(TS Trans-Sexual)の臨床研究がすすむにつれ、マネーとタッカーの発見の一部は追認され、一部は反証された[小倉2001]。日本では九九年に埼玉大で性転換手術の実施が承認され、希望すれば「自然」を「文化」にあわせることが可能になった。TS臨床が示すのは、身体的性別とまったく独立に性自認が成立すること、そしてそれが臨界期の後も変わりうることであった。すなわちセックスとジェンダーは端的にべつのものであること、セックスとジェンダーが連続しているのではなく、切断されていることをTS臨床は明らかにしたのである。

元々の記述では、上野氏が指していたものが「性干渉転換症(TS Trans-Sexual)の臨床」であり、「性転換手術」ではないということが、これで明らかとなる。上野氏の記述の中に「性転換手術」という言葉が出ているからと言って、上野理論が「性転換手術」に依拠していると主張することはできないのである。やはり、テキストを正確に読むという基本を身に付けるべきである。小学生からやり直してみてはどうか。


林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
大切なところなのでもう少し説明すると、「双児の症例」の手術は、そもそも男女の「セックス」の差は原理的なもので変えられないという理解があれば、絶対になされなかった。生得的・生物学的な特徴とそれに基づく性自認は原理的なものであり、身体的な部分を手術したくらいでは変えることは不可能だという理解があれば、手術によって身体的特徴を変えれば解決するなどということを考えつくはずがないのである。

デイヴィッド・レイマー氏に手術が施された理由が、林氏が主張するように「男女の『セックス』の差は原理的なもので変えられないという」考え方だけで説明できるのだろうか。そもそも、なぜデイヴィッド・レイマー氏に手術が施されたのだろうか。『As Nature Made Him』から引用することにする。

As Nature Made Him』(p.8):
生後八ヵ月にして、包皮形成手術の失敗により、自らのペニスをまるごと失ったのだ。両親は取りかえしのつかない損傷を負った息子を、ボルモチアにあるジョンズ・ホプキンス大学病院に連れていき、ひとりの性科学の専門家に診断を依頼した。そしてふたりはその人物の説得により、息子に性転換手術を受けさせることにした。

つまり、マネー氏が「手術」を両親に「説得」することができたのは、デイヴィッド・ライマー氏が「生後八ヵ月にして、包皮形成手術の失敗により、自らのペニスをまるごと失った」状況だったからである。
これはつまり、「男女の『セックス』の差は原理的なもので変えられないという」考え方、「男とは、女とは」という価値観にばかり囚われて、「男女の特徴がはっきりしない」人間を「例外」だと勝手に決め付けたからである。もっとはっきり言えば、「男とはこういうもの、女とはこういうもの」という価値観を、「例外」と定義したものに押し付けたからである。これは長年にわたって、また現在の日本でも行われている、DSD乳幼児(半陰陽)への一方的な「正常」化手術が証明している。
つまり、マネー氏の考えを図で著せば、このようになるであろう。これを見て、「『双児の症例』の手術は、そもそも男女の『セックス』の差は原理的なもので変えられないという理解があれば、絶対になされなかった」ということに納得する人がいるだろうか。

(※注意:この図はただ単に、林氏が作成した図を加工したものであることを、充分にご承知ください。人間の性別というものは、「こんな図」で表せるほど単純なものではありません。)
どこかで見たような図だが、これがマネー氏の考えを「方法論的に」図で表したものである。マネー氏もまた「中間という例外があっても、男女の区別が無効になるわけではないのである」という考え方を持っていた。その考え方を基盤として、「男女の特徴がはっきりしない」人々を「正常」にする手術を推奨していたのである。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
つまり「双児の症例」が存在することの前提として、今日で言う「セックスの連続性」の理論が存在しているのである。また逆に「双児の症例」が成功していたなら、「セックスの連続性」の理論が証明されたことになる。

たった1つの例で証明されたとか、あるいは反証されたとか、そういう主張をすること自体が「方法論的に」間違っていることに気付かないのだろうか。現に「双児の症例」とは違った結果となったブラッドレイ他の論文(ここから読めます)のケースもあるではないか。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
このように上野・大沢氏の「グラデーション」理論とまったく同じマネーの「スペクトル」理論と、「双児の症例」とは、切っても切れない関係にあるのである。つまり、「双児の症例」が失敗だったということは、「セックスの連続性」の理論にも重大な反省を迫るはずではないかと私は言っているのである。これだけ説明してもまだ、「上野氏の記述が「双児の症例」によって証明される関係にはない」と言えるのか。
少なくとも上野氏の「セックスの連続性」の理論と「双児の症例」とはなんの関係もないとは言えまい。「双児の症例」が失敗だったことによって、上野・大沢理論は重大な打撃を受けているのである。

林氏が述べるように、「双児の症例」の失敗によって、上野氏の「セックスの連続性」の理論は重大な打撃を受けているのだろうか?「セックスの連続性」の理論とは何だったか、しつこいがもう一度おさらいしよう。

上野(『差異の政治学』p.8-9):
生物学的に性別を決定する要素には、遺伝子、内分泌、外性器などの異なった次元がある。だが自然界にある性別には、どのレベルでも連続性があり、男/女のような二項対立にはできていない。〔……〕すなわち、遺伝子、内分泌、外性器のどれをとっても、自然界には性差の連続性がある

この部分は、普通に自然界を観測すれば確認されることであり、マネーの理論に何ら依存していない上に、双子の症例がどうなろうと覆されることはない。これだけ説明してもまだ、「上野・大沢氏の『グラデーション』理論とまったく同じマネーの『スペクトル』理論と、『双児の症例』とは、切っても切れない関係にあるのである」と言えるのか。少なくとも「『双児の症例』が失敗だったことによって、上野・大沢理論は重大な打撃を受けているのである」とは言えまい。っていうか、あんたバカァ?
ついでに指摘しておくが、『差異の政治学』にて、上野氏はマネーの理論を、シュルロ、ギリガン、デルフィ、スコット、バトラーらと並列で「ジェンダー概念の歴史」として扱っているのであって、上野氏自身がマネーに依拠しているわけではない。どうも林氏はテキストを正確に読むという基本が欠けているようである。相手の言っていることを正しく読んだ上で批判するように心掛けるべきである。


以上、林氏が持ち出しているほとんどすべての論点を検討してみたが、いずれも「ひどい」としか言えないような、滅茶苦茶なものである。バックラッシュの理論水準の低さを証明するような内容である。仲間内で「そうだ、そうだ」と気炎を上げてチェックもされないでいると、こうした低劣な理解を自信ありげに公表することになるのだろう、かわいそうに*8

論争は「ケンカ」であり、テクニックも付きものだが、一番大事なのは内容だ。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
この者は論争に、テクニックで勝とうとしているようである。その作戦の中心として、私が「いいかげん」であると印象づけるという方法を取っている。一つ一つの論点に「いいかげんだなあ」とコメントをつける。その中に私の凡ミスをたくみに折り込む。例えば『ブレンダと呼ばれた少年』の原題と訳本の題名が同じだと思い込んでいた私のミスをついて、他の論点も「いいかげん」に違いないと読者に思わせ、「いいかげん」を連発する。すると読者は他の論点についても、正確な吟味をしないまま、私のことを「いいかげん」だと思い込まされるという仕掛けである。

確かに私としては珍しく凡ミスをしたものだが、開き直るわけではないが、一冊の中に一つや二つのミスもない本などというものは皆無に近い。とくにこのミスは、拙著の内容にはなんら影響しないミスである。

じゅうぶん開き直っているように見える。ガキかお前は。


ところで、林氏は本当に題名を勘違いしただけなのだろうか? 『家族を蔑む人々』を、もう一度検証してみよう。

林(『家族を蔑む〜』p.55-56):
この題名を見る(聞く)と、欧米の人たちならすぐに「異様な事態が起きたのだな」と理解できる。なぜなら「ブレンダ」という名前は女性の名前と決まっているからである。〔……〕だから少年がブレンダと呼ばれたというだけで。「なぜ?」「どうして?」という興味がわく。この本は題名のせいもあってか、たいへん話題になり、ベストセラーになった。ところが日本ではほとんど注目されないまま、絶版になってしまった。(最近、扶桑社から再出版された)。フェミニズムにとって都合の悪い内容だったためと、フェミニズムの害悪について世間の問題意識が高まっていなかったせいもあるが、題名をそのまま使ったのが失敗だったと思う。

林氏はまたも忘れてしまっているようだが、林氏は上記のように、題名を自分の主張の一部の論拠としている。しかも「フェミニズムにとって都合の悪い内容だったためと、フェミニズムの害悪について世間の問題意識が高まっていなかったせいもあるが」と、勝手な空想をもっともらしく述べているのである。しかも、その空想すらも間違っていたのだから、目も当てられない。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
ついでにバカバカしいことだが、方法論的には大切なことなので指摘しておくと、私が「欧米のファースト・ネームの語尾は女性にはaがつき、男性には子音がつく」と述べたのは法則を言ったのであり、例外がないはずがないのである。欧米では今でも圧倒的な大多数はこの法則に従っているが、例外があることくらい、私も百も承知している。例外を挙げれば批判になると思っているのは、あさはかと言うべきである。そういうレベルの低い揚げ足取りをしても、私を傷つけることにはならないで、己のバカさ加減を自ら宣伝しているようなものである。

本当にバカバカしいことだが、方法論的には大切なことなので指摘しておくと、あとから「例外がある」などと言い訳をするくらいなら、「必ず」という言葉を使うべきではない。

林(『家族を蔑む〜』p.56):
欧米系の名前(ファーストネーム)を見る(聞く)と、男女の違いはたちどころに分かる。というのは、女性の名前の末尾には必ずといってよいほどに、a(または母音)がついているからである。男性の名前には母音はつかない。必ず子音で終わる。*9

「必ず」という言葉は「仮ならず」から音変化したものであり、文字どおり「例外のないさま。きまって。いつでも。*10」という意味を持っている。「必ず」などと豪語した部分のミスを指摘されたからと言って、はらいせに「珍しく凡ミスをしたものだが」「例外を挙げれば批判になると思っているのは、あさはかと言うべきである」と牧波さんを罵るのはお門違いである。恥を知れ、恥を。

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
そういうレベルの低い揚げ足取りをしても、私を傷つけることにはならない」

十分傷ついて、半べそで言い訳をしているように見えるのは、気のせいだろうか。


なお、林氏は、『As Nature Made Him』がかつて絶版になった理由を「フェミニズムにとって都合の悪い内容だったためと、フェミニズムの害悪について世間の問題意識が高まっていなかったせいもあるが」と書いていたが、既に書いたとおり無名舎刊の『As Nature Made Him』が絶版となった理由は、http://d.hatena.ne.jp/makinamikonbu/20051023/にて提示したように、無名舎が2001年に出版業務から撤退したためである。空想をするのは勝手だが、空想は空想として、現実の出来事と混同しないよう、充分に気をつけるべきである。


この点も含めて、林氏が「この者の方がいい加減である」と言る理論的問題はすべて、やはり林氏の方がいい加減であったことは、これまで論証したとおりである。林氏の「makinamiへの反論」と、元々の『家族を蔑む人々』とをきちんと突き合わせてみれば、林氏がさらに「いい加減」で「ボロボロ」になってしまったことは明らかである。


こういう林氏にとって悲惨な結果になったのも、林氏が扇動テクニックだけで論争に勝とうとしているからである。


しかも、そのテクニックも悪質極まりないものばかりである。例えば、相手の著書から「片言隻句(へんげんせつく)を取り出して、恣意的に利用」するという「引用の仕方」を取っている。すなわち、上野氏の「文化的な性差は〔……〕排他的な二項対立」という記述を「『性自認心理的性差)』は連続体ではない」という話に摺り替える。「『解剖学的な性と性自認とが一致しない場合』の一例として『双児の症例』を挙げているに過ぎない*11」コラム一つで「『ジェンダーアイデンティティーを決めるのは性器と教育だ』という考え方を基礎にしている」と批判する。上野氏の「TS臨床が示すのは〜」という記述を「『双児の症例』が示したこと」のように改竄する。そもそも林氏は『家族を蔑む人々』の中で、上野氏の「ジョン・マネ−氏の研究に関しての記述」を省略して、結論部分だけを取り上げて批判している。こういう「相手の言ったことを捩じ曲げる」という「引用の仕方」は、デタラメな主張をすることは得意なくせに論拠や証拠をもたない人間がよく使う方法である。
そもそもこうした「引用のトリック」を使うこと自体、西尾幹二, 八木秀次著『新・国民の油断 「ジェンダーフリー」「過激な性教育」が日本を亡ぼす』(PHP研究所、2005年)の発想と同じ(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20051002http://d.hatena.ne.jp/makinamikonbu/20051023を参照)であり、論争を「ケンカ」として捉えていない証拠である。論争を内容でなく、扇動テクニックだけでやる、それも絶対に学問的とは言えないテクニックでやる、という人間であることを示している。バックラッシュたちは論争を悪質テクニックだけで騙すことと心得ているようである。だからごまかしのインタビューやデタラメな引用を多用することにもなるのだ。


論争にテクニックは付き物だが、一番大事なのは内容である。いくらテクニックを悪用しても、正しい内容には勝てないのだ。内容で勝てない者が悪質なテクニックだけで勝とうとする。そう言われたくなかったら、堂々と内容で勝負したまえ。ん?

林(「makinami‚Ö‚Ì”½˜_」):
主要な論点はこれだ

私への批判をしたかったら、最も重要な論点に対して堂々と理論的に批判をしてきたまえ。参考までに教えておくと、本書の内容のうち、最も重要な論点は以下の命題で示される。
〔……〕
これらの主要な内容に対して批判できなければ、私を批判したことにはならない。本書だけでなく、今までの私の関連書などもきちんと研究してから、言葉尻をつかまえるのではなく、主要な内容に対する本格的な批判ができるものか、見てみたいものである。論点によっては今までの拙著も参考にしてほしいものである。例えば『主婦の復権』(講談社・含む上野千鶴子批判)、『フェミニズムの害毒』(草思社・とくに家族と母性)、『母性崩壊』(PHP研究所)、『家族破壊』(徳間書店・含む基本法への批判)、『家族の復権』(中公新書・含む夫婦別姓批判)などである。これらはすべてフェミニズム批判の書である。

これから出すという「つづき」で、私の主要な論点をどう批判するのか、できるのか、見ものである。

林氏は、すぐに自著を読め、自著を読め、という。それほど在庫が残って困っているのだろうか。しかし、指示されたものを読んでも、一向に林氏のアジテーションを支えるような根拠が書かれていないことは既に述べた。読むだけ時間の無駄である。林氏の欠陥は、もう十分明らかなのだ。


そもそも、林氏の本など、どうせ誰も読んでないし、どうでもいいのである。しかし林氏は、デイヴィッド・ライマー氏の人生を政治的に利用して、色んな人を中傷した。私にはそれが許せなかっただけである。


なお、これからの人生の「つづき」で……いや、これも超どうでもいい。まぁ、テキトーにガンガレ。

*1:参照:http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?index=09717400&p=%BF%DE&dtype=0&stype=1&dname=0na&pagenum=1

*2:原文ママ

*3:参照:http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%C2%A6%CC%CC&stype=1&dtype=0&dname=0ss

*4:Bradley SJ, Oliver GD et al. "Experiment of nurture: ablatio penis at 2 months, sex reassignment at 7 months, and a psychosexual follow-up in young adulthood." Pediatrics. July 1998;102(1):e9.

*5:割礼時の事故でペニスを失った後、手術を受けて女児として育てられた

*6:参照:http://transnews.at.infoseek.co.jp/as-nature-made-him-returns.htm

*7:あのインタビューではわたしの発言が正確に訳されていないように思うな。わたしが何か上野千鶴子教授についてひどいことを言ってしまったかのように引用されているようだけれど、がっかりしているんだ。わたしのコメントが不適切な文脈に入れられてしまったように思うんだ。

*8:「かわいそう」っていうのは、(私自身は)その人を見下した表現であると思っているので、普段はなるべく使わないようにしているのですが、失礼ながら、この一連の「David Reimer氏の人生を踏みにじったジェンフリバッシング」の解析に関わっていく中で、本当に「かわいそう」と思ってしまいました。

*9:太字部分は引用者による

*10:参照:http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%E5%BF%85%E3%81%9A&src=top&search_x=0&search_y=0&ei=UTF-8&fr=top

*11:この本が出版された1999年には、まだ『As Nature Made Him』は発売されておらず、双子の症例が失敗に終わったことを知る人もごく僅かであった。