「当事者以外は語るな」 -ver.makinamikonbu-

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060626/p2を読んで。

私が私の主権者である、私以外のだれも――国家も、家族も、専門家も――私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許さない*1


中絶(レイプも含めて)の問題に関して、私は「当事者以外は語るな」という線引きを個人的に支持している人間です。ネット云々に限らず、「当事者」ではないのに、あたかも当事者を一番理解しているかのごとく、自分の意見を「代弁」と詐称する人間のなんと多いことでしょう。
「当事者以外」の人間(女性も、家族も、パートナーも、同じような被害にあった人も含む)には、中絶そのものではなく、自分達も含めた「中絶を引き起こしているもの」について以外、語ってほしく無いと思っています。*2
ですから私は「当事者以外は語るな」という線引きを必要だと主張していました。


しかし、非当事者(似たようなケースの当事者も含めて)が「当事者以外は語るな」と言うことも、当事者を勝手に代弁することになるんですね……。自分が主張していることの矛盾に、まったく気が付きませんでした。


被害者=当事者の人間が「私以外は(勝手に私を)語るな」とはっきり言えることが一番いいと思います。ただそのためには、「私は当事者だ」と当事者自身が胸を張って言えるようにしなきゃいけませんよね。どうすればそういう状況になれるのだろう……と考えがストップしてしまいます。


当事者の「家族」や「パートナー」や「友達」を含む「支援者」と呼ばれる人々なら、「私は当事者の支援者である」ということは比較的簡単ではないかと思います。なぜなら彼ら自身は「当事者」ではないし、さらには「当事者」を「支援」している、という大義名分があるから。


対して「当事者」は、おそらくインターネットという「匿名」の領域ですら、「私は当事者である」と言える人は本当にごく少数なのではないか……と思います。
中絶被害やレイプ被害の「当事者」であると表明するということは、同時にそれらの被害に向けられている偏見や蔑視の標的であることをも背負わなくてはいけない、ということを意味します。


あまりにも違いすぎる「当事者」と「支援者と呼ばれる人々」を取り巻く状況の違い。そして、その違いを利用して、あたかも当事者を一番理解しているかのごとく、自分の意見を「代弁」と詐称する「支援者と呼ばれる人間」のなんと多いことでしょう。
そして、そういった「支援者と呼ばれる人々」の「代弁もどき」を疑いもせずに神聖化する人々のなんと多いことでしょう。


私個人の意見として、当事者の人間が「私は当事者だ」と胸を張って言えるような世の中になってほしいです。完全に人任せな考えですし、こんなことを言っておきながら「たぶんならないんだろうな」とも思っていますが……。

*1:中西正司、上野千鶴子著『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))岩波書店、2003年

*2:周囲が被害者に対して口出しをすることと、「支援者」と呼ばれる人々が勝手に被害者を「代弁」することと、中絶について議論されることとを、混同しているため、とりあえず削除しました。