レイマー氏を蔑(さげす)む林道義氏

レビュー 著者からの内容紹介
ジェンダーフリ−はマネーの『双子の症例』に依拠していた」「『ブレンダ事件』については学会や出版界に圧力がかかり、ひたすら隠蔽されている」「日本のフェミニストは依然としてマネーの古臭い理論を信奉し宣伝している」……。これらはバックラッシャーが唱える“一見もっともらしく聞こえる”主張だが、その背景にある狙いは、男女共同参画社会政策を空洞化させ、破壊することである。男女、父母、親子等の区別を異質化することにより、「男女共同参画社会政策」の存在意義をなくそうという考え方だ。
2004年代以降、そのようなバックラッシャーたちが『ブレンダと呼ばれた少年』悪用の有効性に気がつき「男女共同参画政策」を阻止するため、復刊ドットコムなどに対して、参画社会政策を空洞化させる解説を新たに付け加えた『ブレンダと呼ばれた少年』の復刊運動を進めた。2005年に入ると、油断していたコンブニストが事態の深刻さに気づき、反撃を開始した――というのが今日に至る図式である。デイヴィッド・レイマー氏を辱めようとするバックラッシュの跋扈をこれ以上許すわけにはいかない。本エントリーは、彼らの「教義」のどこが間違っているかを理論的・方法論的に整理し、論破するための教科書である。


家族を蔑(さげす)む人々 フェミニズムへの理論的批判

家族を蔑(さげす)む人々 フェミニズムへの理論的批判


この本はフェミニズムへの批判というかjender free*1批判の本らしいです。
これだけなら特に牧波さんが取り上げることも無かったのですが、


なんと、この本にも『ブレンダと呼ばれた少年』を使用した
jender free批判の記述があるとのことで。
それでは牧波さんと一緒に、林氏の間違いを徹底検証することにしましょう。

第1章 林道義氏の間違い徹底批判

五 性別(ジェンダー)を変えようとした非道な実験


 文化的性差(ジェンダー)と言われているものが、百パーセント学習や環境によって「作られる」ものではなく、生得的な性差に基づいていることが明らかとなった。とすれば、ジェンダーとかなくそうとかいう試みがいかに無謀で、人格を混乱の極に陥れる非人道的なことか理解できるだろう。ところが、その非人道的な実験を生身の人間を対象に無理やりやった者がいる。他ならぬジョン・マネーその人である。当然ながら、その対象にされた人は虐待をされたに等しく、不幸のどん底に突き落とされた。


記憶だと確か林氏は、「文化的性差〔……〕が、〔……〕生得的な性差に基づいていることが明らかとなった。」という証拠に、新井康允氏の1994年の文献を挙げていました。しかしid:makinamikonbu:20051126にて提示したように、新井康允氏は1999年の時点で「社会的・文化的要因のほうが重視される」と述べています。


それと、ジョン・マネー氏の実験などに関して、「ジェンダー」という言葉を「文化的性差」とするのは間違いです。id:makinamikonbu:20051202にて提示したように、マネー氏の「ジェンダー」概念は「自分自身を男性または女性として認識すること」、「男性または女性としての自己認識を表現しているあらゆることがら」を指します。マネー氏の「ジェンダー」概念を指す場合は「文化的性差」では無く、「ジェンダーアイデンティティ性自認)」や「心理的性差」と呼ぶのが適切です。

「ブレンダと呼ばれた少年」の悲劇
『ブレンダと呼ばれた少年』という有名な本がある(ジョン・コピラント、村井智之訳、無名舎、二〇〇〇年/扶桑社より最出版、二〇〇五年)。その悲惨な人体実験をされた少年の物語である。
 この題名を見る(聞く)と、欧米の人たちならすぐに「異様な事態が起きたのだな」と理解できる。なぜなら「ブレンダ」という名前は女性の名前と決まっているからである。欧米系の名前(ファーストネーム)を見る(聞く)と、男女の違いはたちどころに分かる。というのは、女性の名前の末尾には必ずといってよいほどに。a(または母音)がついているからである。男性の名前には母音はつかない。必ず子音で終わる。つまり名前を見た(聞いた)だけで、男女の区別がつくという仕掛けになっている。こういう文化的な背景があってはじめて、「少年がブレンダと呼ばれた」という題名が意味を持ってくる。つまり少年が女の子として扱われ、または育てられたということが即座に理解されるからである。


林道義氏は御存知では無いかも知れませんが、現代の日本では中学校・高等学校で英語が必修となっており、欧米の映画やドラマもしくは欧米をモチーフにした作品がそこら中に溢れているんですね。従って日本に住む人が「ブレンダ」という名前を「女性名である」ことが分からない、という主張は根拠に乏しいです。どこかでアンケートでもとれるといいですね。
まぁ、それはさておき。なぜ林氏はいきなりこんな話をしたのか、気になりますよね?続きを見ていきましょう。

だから少年がブレンダと呼ばれたというだけで。「なぜ?」「どうして?」という興味がわく。この本は題名のせいもあってか、たいへん話題になり、ベストセラーになった。ところが日本ではほとんど注目されないまま、絶版になってしまった。(最近、扶桑社から再出版された)。フェミニズムにとって都合の悪い内容だったためと、フェミニズムの害悪について世間の問題意識が高まっていなかったせいもあるが、題名をそのまま使ったのが失敗だったと思う。日本人は少年が「ブレンダ」と呼ばれたと言われても、「?」と思うだけで何も感じないからである。手にとってみようと言う気も起こらないだろう。


すでに皆様は各箇所に一々丁寧にツッコミをして戴けたと思われます。そのため改めて牧波さんが突っ込む必要も無いと思うのですが、ねんのため。


第1に、『ブレンダと呼ばれた少年』の原タイトルは『As Nature Made Him』です。これは確か「As Nurture Made Her *2」というマネー氏の言葉を皮肉ったものだったはずだと記憶しています。でも情報源が思い出せない……情報求む、です。
まぁとにかく、『ブレンダと呼ばれた少年』というタイトルがつけられているのは、日本だけです。*3


第2に、無名舎刊の『ブレンダと呼ばれた少年』が絶版となった理由は、id:makinamikonbu:20051023にて提示したように、無名舎が2001年に出版業務から撤退したためです。


まだ『As Nature Made Him』への言及が始まってから2ページ目ですが、これだけでも林氏の論理のレベルがよくわかりますね。では、続きを見ていきましょう。

それはともかく、内容を見てみよう。内容はきわめて重要であるうえに、フェミニズムの害悪を象徴していて、たいへん衝撃的である。


人間を使った性転換実験
 その非道な実験のあらましはこうである。一九六六年、カナダ生まれの一卵生双生児の男の子の一方が包茎切除手術を受けたサイのミスによって男性器の大半を損傷した。このとき、性科学の権威とされていたジョンズ・ホプキンス大学教授のジョン・マネーが両親に「性転換の手術を受ければ、妊娠して出産することこそ不可能だが、精神的には女性として育ち、正常な性生活を送れるようになるだろう」と、その男児を女児として養育するよう説得した。両親は迷ったが、結局、教授の権威に負けて説得され、その男児は性転換手術を受けて「女児になった」とされ、ブレンダと名づけられて女の子として育てられた。
マネーは前述のように『性の署名』で有名だが、その書名どおり、「性の自己認知」(ジェンダーアイデンティティ)は「どう署名するか」、すなわち「どう育てられるか」で決まるという信念を持っていた。
マネーは一九七二年、論文「双児の症例」を書いて、その実験が成功したと発表した。この症例は「ジェンダーは育て方によって決まる」「男の子でも女の子として育てれば女の子になる」というフェミニズムの教義を実証するものとして、「ジェンダー」理論を補強する役割を果たした。


あれ?はじめの段階で林氏は「ジェンダー」を「文化的性差」と定義していましたよね。でもここでは「ジェンダー」を「性の自己認知」(ジェンダーアイデンティティ)と定義していますね。いいかげんだなぁ。
ただこの引用箇所からは、林氏が「フェミニズムの教義」を「性の自己認知は育て方によって決まる」と定義していることが理解できます。これはid:makinamikonbu:20051202にて提示したように、現代の「ジェンダーフリー」の概念とは異なっています。ジェンダーフリーは「『女/男とはこういうものだ』という通念を元にした男女の区別」を問題にしており、「性の自己認知は育て方によって決まる」という主張ではありません。もちろん「男の子を女の子として育てて女の子にする」という主張でもありません。
1970年代の「フェミニズムの教義」なんざは知ったこっちゃありませんが、林氏が批判しているのは現代の「男女共同参画社会政策」や「ジェンダーフリ−」ですから、問題は無いでしょう。

実験の失敗と悲惨な結果
しかし、その実験は失敗していたのである。その子は自分が男の子であるという自己認知を持ち続け、女の子として扱われることとのあいだで強い葛藤を味わい続けていた。そしてついに十四歳で、デイヴィッド・レイマーという名で男の子に再認定され、後には結婚もしていた。
 この事実を知ったハワイ大学のミルトン・ダイアモンド教授は、マネーの論文「双児の症例」に疑問を持ち、その批判を一九九七年に発表した。この内容を受けてジャーナリストのジョン・コピラントが本人に対する何時間にもわたるインタビューを行い、『ブレンダと呼ばれた少年』にまとめて発表した。
 そこにはマネーがデイヴィッドにどんな異常な仕打ちをしたか、事細かに暴露されていた。たとえば六歳の頃、兄弟は交尾の真似をさせられ、男と女の役割意識を強制された。デイヴィッドはそれを拷問のように感じ、「おれは自分のことを女の子として受け入れるよう洗脳されたんだ」(三〇二頁)と語った。


ここは突っ込む必要は無いですかね。
『As Nature Made Him』が手元に無いので検証できません;

 ダイアモンド教授の批判を機に、「性の自己認知は生まれつき決まっているのか、それとも育て方によって左右されるのか」という論争が全米で巻き起こった。この論争は生得説のダイアモンド教授側の勝利によって決着がつき、マネー理論は完全に破綻した。今日では脳科学の進展によって、客観的にもダイアモンド教授の正しさはほぼ完全に証明されている。

林氏は「性の自己認知は生まれつき決まっている」と主張したいのでしょう。しかし、id:makinamikonbu:20051114にて提示しているように、マネー氏は性転換希望者や 半陰陽の患者がホルモンや遺伝子の状態などに関係なく「自分が女性または男性に属していると確信して」いたことから、「遺伝子やホルモンによって決定される生物学的性別」の他にも「心理的・社会的な性別」があるのではないかという仮説を立てています。この仮説を「双児の症例」だけで「完全に破綻した」と主張することは、論理として成立しません。
また、ダイアモンド氏は東京新聞の取材*4に対して「人間の性別は生物学的な資質と社会、文化的な力が働きあった混合体。個人において、その混合がどう現れてくるかは、だれも予想できない」と答えています。


脳科学に関しては前述したので省略します。

しかし、問題は学術的な勝ち負けではすまなかった。不幸にも、デイヴィッド・レイマ−は二〇〇四年五月、突然自殺してしまったのである。恐らく幼少期に受けた非道な性転換と、女の子として育てられた無理による傷を最後まで克服できなかったためと考えられる。


自殺の原因についてはそこら中で言われていますが、果たして断言できるものなのでしょうか?ニューヨークタイムスの記事*5をあたってみましょう。

His mother said he had recently become depressed after losing his job and separating from his wife. He was also still grieving over the death of his twin brother two years earlier, she said.


記事によれば、デイヴィッド・レイマ−氏は仕事を失ったことや離婚したこと、弟のブライアン氏が自殺してしまったことなどに落胆していたようです。林氏への批判は敢えて行いません。

間違ったイデオロギーと理論が、一人の人間の人生を狂わせ、自殺にまで追い込んでしまったのである。これは犯罪以外の何ものでもない。
ブレンダの症例によってマネーの権威は地に堕ち、フェミニズムの間違いは白日の元に曝された。しかし、その事実に目をつむって、日本のフェミニストは依然としてマネーの古臭い理論を信奉し宣伝している。信じられないような非良心的・反道徳的な者たちである。


この時点ですでに林氏の主張はボロボロですが、この後にも色々と批判するみたいです。先へ進む前に、一通りまとめておきましょう。

  • 脳科学者は「ジェンダーの役割を考える場合には、社会的・文化的要因のほうが重視される」と述べています。
  • マネー氏の「ジェンダー」概念を指す場合は「文化的性差」では無く、「ジェンダーアイデンティティ性自認)」や「心理的性差」と呼ぶのが適切です。
  • 『ブレンダと呼ばれた少年』の原タイトルは『As Nature Made Him』です。
  • 無名舎刊が絶版となった理由は、無名舎が2001年に出版業務から撤退したためです。
  • ジェンダーフリーは「性の自己認知は育て方によって決まる」という主張ではありません。
  • マネー氏の「心理的・社会的な性別」の仮説を「双児の症例」だけで完全に破綻させることは不可能です。
  • 現在ダイアモンド氏は「性の自己認知は生まれつき決まっている」と主張していません。
  • レイマー氏の自殺の原因を「実験によるもののみ」と決めつけることはできません。

第2章 フェミニズムへの理論的批判という名のエセ学問 ――曲学阿世の名誉教授

六 本質的には同じことをしているフェミニストたち


こうした不幸と非道を引き起こしたのは、一つの誤ったイデオロギーである。そのイデオロギーとは、「ジェンダーアイデンティティーを決めるのは性器と教育だ」という考え方を基礎にしている。「性転換手術によって性器を変え、女の子として育てれば、その子は女の子として適応できる」という理論である。
 この考え方はいまの日本のフェミニストのあいだでも幅を利かせている。欧米の極左フェミニストの「ジェンダー」概念を輸入し、単純化・大衆化して普及させ、定着させたのが上野千鶴子氏と大沢真理氏である。


……デジャヴ?たしか同じようなことを「新しい歴史教科書をつくる会」会長の八木秀次氏も言っていた気がします。id:makinamikonbu:20051023あたりでしたっけ?
とりあえず林氏の言う、「『ジェンダーアイデンティティーを決めるのは性器と教育だ』『性転換手術によって性器を変え、女の子として育てれば、その子は女の子として適応できる』という理論を単純化・大衆化して普及させ、定着させた」人たちへの「理論的批判」というものを見ていきましょう。

上野千鶴子氏のゴマカシ理論
とくに上野千鶴子氏はジェンダー論を単純化し、分かりやすく正当化した。セックスとジェンダーの関係についても「セックスとジェンダーは別物」「切断されている」と公言した。両者の関係如何──どちらがどういう影響を与えるのか──という難しい議論を捨てて、ただフェミニズムに特有の「ジェンダーがセックスを規定する」という命題だけを言うにとどめた。こうした単純化によって、ジェンダー論の矛盾・間違いもまた分かりやすくなった。
上野氏は『差異の政治学』(岩波書店)において、マネーの理論を推奨しながら、「セックスは二分法では決められないが、ジェンダーは必ず男か女というように二分法になっている」という「セックスージェンダー別物論」を次のように正当化している。
たとえば、遺伝子のレベルで見ると、「X遺伝子とY遺伝子の組み合わせが性別を決定すると言われているが」、実際にはXX(女性)、XY(男性)という組み合わせだけではなく、XXX、XYYなどたくさんの組み合わせがあり、「遺伝子上の性差でさえ、二種類以上の組み合わせによる連続体を構成している」(七ー八頁)
また内分泌すなわちホルモンについても、男性ホルモンと女性ホルモンの多い少ないはさまざまであり、ホルモンの分布には連続性があり、実際には「より男性的」または「より女性的」なホルモン分布を持った固体があるにすぎない(八頁)
つまり「遺伝子、内分泌、外性器のどれをとっても、自然界には性差の連続性があるのに対し、文化的な性差は中間項の存在をゆるさず、男でなければ女、女でなければ男、と排他的な二項対立のいずれかに、人間を分類するのである」(八ー九頁)
こういうのを私は「フェ理屈」と名づけた。うっかりすると騙される。ゴマカシは第一に「中間形態が実際に存在している」ことと「原理的区別」とを混合している点に、いま一つは「連続体」「連続性」という言葉にある。
「連続体」「連続性」と言われると、色のスペクトルのように本当に切れ目なく「連続」しているように思わされる。本当はただ「中間のものがある」という意味にすぎないのである。


強気の発言ですね。ただ問題は、林氏が引用した上野氏の記述が「双児の症例」によって証明されたものではない上に、ジョン・マネ−氏が発見したものでもない、という点でしょうか。
id:makinamikonbu:20051114にて提示しているように、マネー氏が発見した仮説は、性転換希望者や半陰陽の患者がホルモンや遺伝子の状態などに関係なく「自分が女性または男性に属していると確信して」いたことから、「遺伝子やホルモンによって決定される生物学的性別」の他にも「心理的・社会的な性別」があるのではないかというものでした。


しかしここまで強気の発言ですので、きっと続きにはすばらしい理論的批判があるんでしょう。

男女の分布を図に著せば、このようになるであろう。これを見て、「切れ目のない連続体」だということに納得する人がいるだろうか。



……。


ごめん林氏。私にはどうしても「切れ目のない連続体」にしか見えないよ。
というか、この主張がどうしたら「双児の症例」と結びつくのかも分からないよ。


もしかしたらこの点々を見て「切れ目はあるし、連続体でもない」と言っているのかもしれないけど、世界の人口60億人の単位で見れば、もっと細かくなるでしょうし。

しかも、その「中間」は遺伝子やホルモンの本来の働きが狂ったり少なかったりした結果にすぎないのである。男女の原理的な区別はたしかに存在しているのである。「中間があるから原理的な区別ができない」というのは方法論的に間違いである。もしそうなら、生物学の分類というものは原理的にできないことになる。いや、そもそも学問の概念とか定義というものは不可能になる。


「男女の原理的な区別はたしかに存在しているのである」という林氏の主張は、先ほど提示した御自身の「連続体の絵図」によって反証されてしまいますね。男女の原理的な区別はたしかに存在していません。
「原理的な区別ができないから中間はない」というのは方法論的に間違いです。もしそうなら、林氏の主張は上野氏の主張「文化的な性差は中間項の存在をゆるさず〔……〕排他的な二項対立のいずれかに、人間を分類するのである」によって論破されることとなります。
「生物学の分類」「学問の概念とか定義」を一切疑わずに、目の前の事実を一方的に”嘘”と決めつけることは、果たして「理論的批判」と言えるのでしょうか?

もし「中間があるから連続がある」と言うのなら、「男らしさ」「女らしさ」にも中間があるから、ジェンダーについても「男でなければ女、女でなければ男、と排他的なニ項対立」だとは言えなくなる。というのも、世の中には「男まさりの女」「女より女々しい男」もいるし、そのようなジェンダー自認を持った人が現にいるし、世間も「中間」がいることを認識している。したがって「男らしさ」「女らしさ」も両極端として固定されたものではなく、無数の組み合わせによるグラデーションがあるからである。だから上野氏の論法でいけば、ジェンダーもまた連続体だと言わなければならない。しかし上野氏は同じ論法を一方にだけ適用し、他には適用しない。こういういい加減な論理が通用するのがフェミニズムの世界である。


林氏が引用した上野氏の記述は「生物学的な分類は文化的な性差によって規定される」という内容であるのに、林氏はこの段落では「ジェンダー自認」の話に摺り替えています。こういういい加減な論理が通用するのがバックラッシュの世界なんですね。こういうのを私は「ドギ屈」と名づけましょう。たとえうっかりしていても誰も騙されないでしょうけど。


林氏はこの段落で「『男まさりの女』『女より女々しい男』もいるから、ジェンダーもまた連続体だと言わなければならない」と言っています。でも、林氏は著書の中で「男らしくない男」や「女らしくない女」を徹底的に叩いていますよね。同じ著書の中ですら論理が矛盾しあっている。まさに「ドギ屈」ですね。

上野氏はマネーの業績をこう評価している。「マネーとタッカーの業績は、つぎの二点にまとめることができる。第一に、生物学的還元説に対して、セックス(生物学的性差)とジェンダー(心理学的性差)とは別のものだとあきらかにしたこと、第二に、だからといってジェンダーが自由に変えられるようなものではなく、その拘束力が大きいことを証明したことである」(一〇頁)。その後、上野氏はマネーの実験が失敗であり、悲惨な結果を招いた事実を知って、自説を撤回したとか、自己批判したという話を聞いたことがない。こういう学問的非良心が平気でまかり通るのがフェミニズムの世界である。


林氏はいままでに引用してきた上野氏の記述は「双児の症例」によって証明されたものではない上に、ジョン・マネ−氏が発見したものでもありませんでした。林氏は、上野氏の「ジョン・マネ−氏の研究に関しての記述」を省略して、いきなりこの時点で「ジョン・マネ−氏の研究に関しての記述」の結論部分を持ってきています。八木氏と似たような手口です。
先ほども記述しましたが、id:makinamikonbu:20051114にて提示しているように、マネー氏が発見した仮説は、性転換希望者や半陰陽の患者がホルモンや遺伝子の状態などに関係なく「自分が女性または男性に属していると確信して」いたことから、「遺伝子やホルモンによって決定される生物学的性別」の他にも「心理的・社会的な性別」があるのではないかというものでした。上野氏はこのことについて「マネーとタッカーの業績は〔……〕セックス(生物学的性差)とジェンダー(心理学的性差)とは別のものだとあきらかにしたこと」と記述しているのです。
もちろんこのマネ−氏の仮説は「双児の症例」によって発見されたものではありません。また上野氏の「差異の政治学」論文は「双児の症例」には一切言及していません。従って「双児の症例」の失敗を根拠に「『差異の政治学』を撤回せよ」と主張するのは「ドギ屈」でしかない訳です。

さらに上野氏は、「性転換手術」が示したことは「身体的性別とまったく独立に性自認が成立すること、そしてそれが臨界期の後も変わりうることであった。すなわちセックスとジェンダーは端的にべつのものであること、セックスとジェンダーが連続しているのではなく、切断されていることをTS臨床は明らかにしたのである」と書いている(一一ー一二頁)。
これもまったくデタラメな、自分たちのイデオロギーに都合のよい解釈の押しつけである。「性転換手術」は性自認とは異なる身体的特徴を手術によって性自認に一致させるものであり、「身体的性別とまったく独立に性自認が成立すること」という一般化を許すものではない。それは「身体的性別とは逆の性自認が存在しうること」を示しているだけであり、しかもその交差現象は例外的であることを示している。
フェミニストはなんとしても、セックスとジェンダーが別物であり、「切断」されていることにしなければならないのである。だから無理やりにセックスとジェンダーが食い違っている特殊な場合を一般化して、両者は別物だと強弁するのである。


なんかもう全然「双児の症例」に関係ないですね。
ここでは「TSの臨床は例外だ」という理由だけから「身体的性別とまったく独立に性自認が成立することも例外だ」と決めつけることはできません、とだけ書いておきましょう。


次に林氏は大沢氏を批判していますが、似たような論調でしたので割愛します。問題部分がありましたら「林氏の○○の主張は正しいぜ」と指摘してください。検証致します。

またフェミニスト活動家のためのテキストとして使われている、国立女性教育会館の研究成果をまとめた『女性学教育/研究ハンドブック〔新版〕』(有斐閣、一九九九年)にも、「マネーはその著『性の署名』の中で、長い間女の子として育てられた子どもは、たとえ解剖学的に男の子であっても女の子としての性自認が形成されているので、女としての役割を習得する、つまり性自認の方が解剖学的な性よりも強力である事例を報告している」などと書かれている。


『女性学教育/研究ハンドブック〔新版〕』は八木氏の解説にも登場していましたね。そんなに酷い本なのでしょうか。実際に見てみましょう。(太字は林氏が引用しなかった部分です。)

Column(13) ジェンダーアイデンティティ
社会的に自分は「女である」あるいは「男である」と認識することをジェンダーアイデンティティ性自認)という。解剖学的な性と性自認とが一致しない場合もある。J・マネーはその著『性の署名』の中で、長い間女の子として育てられた子どもは、たとえ解剖学的に男の子であっても女の子としての性自認が形成されているので、女としての役割を習得する、つまり性自認の方が解剖学的な性よりも強力である事例を報告している性自認と解剖学的性を一致させるために性転換手術を受ける人もいる。
日本では平成10年10月、国内初の性転換手術が埼玉医科大学で行われ、自分の性に違和感を持つ障害の治療に新たな道が開かれた。
戸籍変更等の法整備や性教育のあり方などに課題が残されているが、日常生活のさまざまな場面で、あたり前だった性別がゆらぎはじめている。    (N. H.)


実際に見てみると、このコラムでは「解剖学的な性と性自認とが一致しない場合」の一例として「双児の症例」を挙げているに過ぎないことがわかります*6。このコラムの内容に対して「『ジェンダーアイデンティティーを決めるのは性器と教育だ』という考え方を基礎にしている」と批判することはどう考えても「ドギ屈」にしかなりません。

その他、数知れない自治体の文書の中に、同様の理論が書かれている。それどころか、日本フェミニズムの司令塔である内閣府のホームページには、このジョン・マネー文化人類学者のマーガレット・ミードの学説が掲載されている。まるでジェンダー理論の模範扱いである。


「数知れない自治体の文書」「内閣府のホームページ」は確認できませんでした。具体的な提示がない上に、「内閣府のホームページ」で「マネー」を検索しても「電子マネー」しか出てこなかったのです。
ただ、これまでに林氏が挙げた文献のほとんどが「双児の症例」に全く関係なかった(それどころか、マネー氏の研究の成果ですらなかった)こと、「双児の症例」に言及しているただ一つの文献も「解剖学的な性と性自認とが一致しない場合」の一例として「双児の症例」を挙げているに過ぎないことを考えると、現時点で手間をかけて探す必要もないでしょう。でも、もしあれば指摘してください。検証致します。


こんなところですかね。
さて、林氏は自分の論理が破綻していることを自覚して、自説を撤回したり、自己批判したりするでしょうか。「こういう学問的非良心が平気でまかり通るのがバックラッシュの世界である」というのが定説にならないといいですね。


バックラッシュの方々には、二度とふざけた文章を書かないでほしいです。

ちなみに、林氏の主張の根本的な矛盾はmacska dot org » 生物学基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ矛盾がわかりやすいです。この本にも似たような主張がありました。

*1:産経新聞世界日報などでジェンダーフリーと呼ばれる、過激な性教育や性差の否定を指す。そこら中で騒がれている割には実例が一件も報告されて無いのが特徴。男女混合名簿男女共同参画政策やジェンダー(gender )フリーとは異なるので注意。

*2:養育が彼女を作った

*3:牧波さんはこのタイトルが正直嫌いです。また後日エントリー書くかもです

*4:http://transnews.at.infoseek.co.jp/as-nature-made-him-returns.htmを参照

*5:http://transnews.at.infoseek.co.jp/as-nature-made-him-returns.htmを参照

*6:この本が出版された1999年には、まだ『As Nature Made Him』は発売されていませんでした