「諸君!」鼎談のジェンフリ・バッシングは相変わらず嘘だらけ -ver.makinamikonburoh-

<お知らせ>
性自認の記述部分をジェンダーに訂正いたしました。
これは八木氏や小谷野氏の主張において扱われている「ジェンダー」が、
ジョン・マネー氏の定義した「性自認性役割」と同じ概念*1を指していると考えられたからです。


id:makinamikonbu:20051123の「小谷野氏のキセキII」にて、牧波さんは「残念ながらまだ地球では、性自認ジェンダー*2に関して、「氏か育ちか」は証明されてないんですよね。」と申し上げました。


その後、macskaさんが“人為的にジェンダーを変更させられた」事例”をもとに、
小谷野敦氏の「「大体は生まれつきで決まる」というのが正確でしょう」という発言の検証をしてくださったおかげで*3
“「大体は生まれつきで決まる」なんて軽々しく言えるほど圧倒的なデータはどこにもない。”ということが牧波さんにも理解できたわけですが。


もちろん、macskaさんが小谷野氏の発言の検証をする前に、
強気なことを書いていた牧波さん自身にも当然情報源はあったわけです。
macskaさんが提示したものほど強力なものではありませんが、ついでなので公開します。


じつは、今回提示するものは、実は八木秀次氏が

で取り上げていたものだったりします。


皮肉にも、八木氏が自説を正当なものと見せかけるために紹介した文献が、
そのまま小谷野氏の発言を反証するソースとなってしまっていたり。


id:makinamikonbu:20051023を読んでくださった方はなんとなく予想できていると思いますが、
今回の八木氏の引用部分も、前後を読むと「アレレ?」というものだったりします。


前置きはこの辺にして、サクサクいってみましょうか!

まずは

「解説 ジェンダーフリーの“嘘”を暴いた本書の意義」にて紹介されている、『脳の性差―男と女の心を探る (ブレインサイエンス・シリーズ)』(新井康允著、共立出版、1999)から。
この本に対する、八木氏の紹介文は以下のとおり。

 マネーの学問的破綻に明らかなように、「生物学的宿命」から逃れようとするジェンダーフリーという発想は今日の科学では完全に否定されている。最新の研究によれば、「男らしさ」「女らしさ」の意識は生得的なものが基礎にあってのことであり、そのことは例えば、新井康允氏の『脳の性差―男と女の心を探る』(共立出版、一九九九年)などによって明らかにされているところである。

八木氏が「ジェンダーフリーという発想」の例として挙げた、大沢氏・船橋氏・上野氏の主張が
マネー氏の「双子の症例」に依拠していないということは、
すでにid:makinamikonbu:20051023で取り上げたので、今回は問題にしません。

今回問題にするのは、「「男らしさ」「女らしさ」の意識は生得的なものが基礎にあってのことであり」
という部分です。一応、著書の文脈には

 生殖機能を調節する脳の働きには、はっきりとしたちがいが認められる。動物の性行動を考えてみても、雄と雌が同じような行動をやっていたのでは生殖活動はうまくいかない。そこには自ら雄と雌で役割分担があり、行動的にちがいがあるのは当然のことである。このような行動的な性差を生ずる背景には、雌雄で脳がハードウェア的に異なるところがあるからである。
(p.iiiより)

とあり、一見、八木氏の主張には筋が通っているように思えます。
では、続きを読んでみましょう。

 しかし、人間の性役割の成立には、生物学的なものばかりでなく、社会的・文化的要因が加わっており、いわゆるジェンダーの役割を考える場合には、社会的・文化的要因のほうが重視される。したがって、男らしさ、女らしさを考えるときに、動物の場合のようにそう単純にはいかない。
(p.ivより)

つまり最新の研究を発表した新井康允氏すら「人間の性役割の成立には、生物学的なものばかりでなく、社会的・文化的要因が加わっており、いわゆるジェンダーの役割を考える場合には、社会的・文化的要因のほうが重視される。したがって、男らしさ、女らしさを考えるときに、動物の場合のようにそう単純にはいかない
と述べているわけで。また、

新井(『脳の性差』p.188):
脳の性差が生ずる誘因として、本書では周生期における性ホルモンの働きを重視して述べてきた。しかし、ヒトの行動の性差、特に性的嗜好などに関して、ホルモンの働きのみで、その行動の異常が決まるというほど単純なものではないだろう。生物学的側面があることは事実であって、おそらく、それに加えて何かきっかけになる社会的なインプットが握っているかもしれない。この点に十分考慮する必要があるだろう。

新井氏は「脳の性差が生ずる誘因として、〔……〕生物学的側面があることは事実であって、おそらく、それに加えて何かきっかけになる社会的なインプットが握っているかもしれない。この点に十分考慮する必要があるだろう」と記述しています。つまり「脳の性差が生ずる誘因として」、「生物学的側面」と「きっかけになる社会的なインプット」の2つを挙げています。
「側面」というのは「種々な性質・特質のうちの一つ。一面*4」という意味であり、「きっかけ」というのは「物事を始める手がかり。糸口。また、原因や動機*5」という意味です。


新井康允氏が動物の脳の性差の証拠として挙げている性行動については、
実は哺乳類において同性愛はめずらしくなかったりすることもあったりして*6
疑問は残るわけですが、


小谷野氏や八木氏が「ジェンダー」として定義する、
“「男らしさ」「女らしさ」は生得的”っていうのは、だいぶん怪しかったりします。

その疑問を抜きにしても、「脳の性差」が重要であるという『脳の性差―男と女の心を探る (ブレインサイエンス・シリーズ)』での新井氏の主張は、八木氏の「『男らしさ』『女らしさ』の意識は生得的なものが基礎にあってのことであり」という主張や、小谷野氏の「『大体は生まれつきで決まる』というのが正確でしょう」という主張の基盤にはならないことがわかります。

では次に、

『新・国民の油断』にて引用されている
脳の進化学―男女の脳はなぜ違うのか (中公新書ラクレ)』(田中冨久子著、中央公論新社、2004)について見てみましょう。
この本に対する、八木氏の紹介文は以下のとおり。

『ブレンダと呼ばれた少年』について、日本でも翻訳が出版されているのに、それにはいっさい言及しないで、マネーの“学説”を支持しています。もちろん、このような説明はまったく科学的根拠のないデタラメです。上野氏は嘘の上塗りをしているのです。
 これに対して、脳科学者で横浜市立大学医学部長の田中冨久子氏は、生物学的要因を否定し「遊びにおける性差は社会の影響によって作られる」というアメリカの女性生物学者、A・ファウストスターリングの見解(『ジェンダーの神話』工作舎、平成二年)について、「彼女が女性擁護から……生物学的結論を否定したいとするならば、それは科学を否定することになるのではないだろうか」と述べています(『脳の進化学』中公新書ラクレ、平成十六年)。同じ批判が大沢氏、上野氏、船橋氏らに対しても向けられるべきだと思います。

八木氏が「ジェンダーフリーという発想」の例として挙げた、上野氏の主張が
マネー氏の「双子の症例」に依拠していないということ(以下略*7


とりあえず元の本から、ちゃんと引用してみましょう。
太字部分は例によって、八木氏が略した部分です。

女の子よりも男の子の方が遊びけんかが好きなのは事実だが、この要因には2つの可能性が考えられる。その第1は、生物学的なもので、胎生期に男の子の精巣が分泌するアンドロジェンが脳を男の型につくりあげるため、第2は、脳が生後の養育や教育を学習し、適応してきたため、つまり社会化による、ということができる。
 前述した女性生物学者A・ファウストスターリングは、科学者かつフェミニストの目で見ると、動物実験ではありえても、ヒトでは違うのだ、と主張する。私は、心ならずも、ラットに多大な犠牲を強いつつ研究を行っている女性科学者である。動物実験の結果を即ヒトに演繹するこには危険があるかも知れないが、ヒトと動物はひとつながりの線上にあると考えなければ動物実験はありえない、と考えている。
もし、彼女が女性擁護ゆえに第1の生物学的結論を否定したいとするならば、それは科学を否定することになるのではないだろうか。少なくとも、現時点では2つの可能性がある、と理解しておくのが科学的な思考であるように思う。
(p.109-110より))

これは簡単ですね。今度から八木せんせーや小谷野せんせーの信者
またはご本人に会ったら、こう言ってあげればいいでしょう。

もし、あなたが生物学的還元説擁護ゆえに第2の社会化要因を否定したいとするならば、それは科学を否定することになるのではないだろうか。

と。

さて、

今回のエントリーで取り上げた内容は、めんどくさかったので
特に「As Nature Made Him」に関係なさそうだったので、
今までは取り上げなかったんですが、


いざ取り上げてみると、ジェンフリバッシングをしている人たちの「jender」の定義も
なんとなく理解できたような気がしますし、
ある意味では有意義なものだったかもしれません。


ちなみに、牧波さんの見解では、
macskaさんが取り上げたのは「自分はどの性か」つまり性自認に関するものであり、
牧波さんが今回取り上げたのは「男らしさ・女らしさ」つまり性役割だと考えます。

最後に、

id:makinamikonbu:20051123の「小谷野氏のキセキII」にて、牧波さんが書いた

  • 「氏か育ちか」という問題はそんなに大切ですか?
  • マネー氏が間違っていたのはただ単に、彼の主張が「性自認ジェンダーは育ちで決まる」だったからなんですか?
  • 性自認ジェンダーが「氏」で決まっていたら、何をやってもいいんですか?

についても、少しだけ触れてみることにします。


これから引用するのは『ブレンダと呼ばれた少年』(ジョン・コピラント著, 扶桑社, 2005)です。
さて、あなたはどう考えますか?

ジョンズ・ホプキンス大学病院では、医師たちはまさに専断的に、子供に特定の性を押しつけ、その性にたいして子供が疑いや戸惑いも示しても、それをことごとく否定した。デイヴィッドの症例や自らの研究対象を基準に考えると、何十年も続いたジョンズ・ホプキンス式処置法は再検討する必要がある、とレイナーは主張する。「われわれは子供たちの声を聞こうとしなければなりません」とレイナーは言う。「どうすることが正しいのか、それをわれわれに教えてくれるのは、ほかでもない子供たちなのですから」