実際に被害者がおらず「社会的に容認され擁護されているというメッセージになることが問題」ならば、必要なのは焚書ではないだろうに。

今回のエントリは以下の条件をもとに記述する。

  • 今回扱うものは実在の未成年モデルがいない、フィクションとしての創作物。
  • 実在の児童に対する性的虐待および性商業的な搾取は、映像や写真などの記録に残ろうがのこらまいが問題。
  • 児ポ法はそもそも実在する児童を守るもの。
  • 同じ規制でも、注意書きとゾーニング焚書とでは全く意味が変わる。

特にアニメ・漫画表現における規制に関してこのようなことを言う人が多い。
こういう人達はいわゆる「ポルノ」が社会的に氾濫することがなぜ悪いことなのか分かってないのではないのだろうか?(good2nd氏を指すわけではない)


個別的なケースにおいて、ポルノ表現が性犯罪に結びつくことは、あるかもしれないし無いかもしれない。あるいは抑止されているかもしれない。
ただ社会問題としてのポルノ表現とは、それが多量に表立って流通することで、その表現内容が社会的に容認され擁護されているというメッセージとなってしまうことだ。
例えば残虐な暴力表現が規制されるべきなのは、それに直接影響を受けたバカモノが同じ行為に至る可能性があるからではなく、そのような行為が一定の社会的合意を得ているものだと受け手に伝わってしまう効果があるからだ。
児童ポルノ見てる奴は異常」とかのネガティブなイメージの流通は「差別」を助長するので好ましくないと思うが、一方児童ポルノがネガティブメッセージを伴わず表立って流通するなら、それは一体何を助長する効果があるのか、まったく考えないのだろうか?

一見筋が通って読めるのだが、これはこれで問題。
「社会的に容認されているというメッセージ」となることが問題であるのに、なぜその解決法が焚書(否ゾーニング)なのか。
なぜ教育でそれをしないのか。なぜ人の痛みを教えようとしないのか。
そもそも知ろうともしないのか。

個別的なケースにおいて、ポルノ表現が性犯罪に結びつくことは、あるかもしれないし無いかもしれない。あるいは抑止されているかもしれない。

ならば、余計必要なのは教育だろう。
猿のマスターベーションを止めたいわけじゃないんだろう?
実際に虐待受けたり売春させられたりしてる人間をほっぽりだしてくだらないクリーン運動に笑顔振り撒いてる暇があるなら、
これから何も知らない者が被害者にさせられないように、実際に被害を受けている者がそのことに気付くように、実際に被害を受けたとわかったときに誰かに訴えることができるように、
そしてそもそも、「その行為」は相手を傷つけることになると言うことがわかるように、またセカンドレイプを起こしてしまわないように教育すべきではないだろうか。


もちろん必要なのは「社会的に否定されているというメッセージ」ではない、ということも付け加えておく。